2012年10月21日日曜日

出エジプト記3章7-10節「今、行きなさい」

第150号

 
 この章の一節から六節には、羊飼いモーセと神との出会いが書かれています。モーセはミディアンの地で姑エトロの羊を飼っていましたが、ホレブの山に来た時、柴が燃えているのに燃え尽きないのを見て不思議に思い「道をそれて」その柴のところにやって来ました。すると「主の御使い」が柴の中で燃える炎の中に現れ、「モーセよ、モーセよ」と語りかけました。
 羊飼いは普通、五〇頭から百頭を連れて移動します。この羊の群れを外敵から守り、緑の野辺に導かなければなりません。「道をそれて」とはしばらくこの羊から離れ、燃える炎に関心を移すということでした。しかし、それはモーセにとって、神が備えられた別の「道」を歩むその時が来たということでもありました。
 主はモーセに「履物を脱ぎなさい。ここは聖なる場所である」と言われました。古代のイスラエルでは履物はその人の主権を象徴するものでした(ルツ記四章八節参照)。神がモーセに求めたのは自分を神に差し出しなさいというもので、その神は「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」でした。
 今日の聖書箇所、七節から一〇節では神の側に立って、何故、モーセに御自身を顕現されたのか、その理由が述べられています。それは、モーセをエジプトに遣わし、ご自分の民を約束の地に導き出すためでした。この使命を達成するためにこれまでのモーセの生涯があったのです。最初の四〇年はエジプトの王になるための宮廷での学び、次の四〇年は荒野で羊飼いとして愛と忍耐を学ぶ期間でした。そして主はモーセに「今、行きなさい」と言われました。ここからモーセの新しい、そして最後の四〇年が始まるのです。

 七節には、神は「見」、「聞き」、「知った」とあります。世界中の神の多くは人とは別の世界に住み、人にこのような関心を示すことはありません。しかし、イスラエルの神は違います。神は「エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ声を聞き、その痛みを知った」のです。九節でも「見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た」とあります。そして八節、「それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し」、約束の地に「導き上る」と言われ、一〇節で「今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ」と命令されました。

  神はイスラエルの民を「わたしの民」と呼び、エジプトの民らと区別しています。それは、神の選びによるもので、アブラハムの子イシマエルの民は「わが民」ではありません。「わたしの民」の受ける苦しみ、痛みは、神御自身の苦しみ、痛みでもあります。それは親子の関係と同じです。子の受ける苦しみ、痛みは親の苦しみ、痛みとなるからです。モーセはご自分の民と一緒に苦しんでいる神を知りました。
 中世の修道士アッシジのフランシスコはある時、涙を流し、その理由を友人に「主イエスのお苦しみを思うと泣けて、泣けて仕方がないのです」と言ったと伝えられます。インドの聖女マザーテレサ十字架の主イエスを見たと言います。そこで主イエスから「わたしは渇く」との言葉を聞き、愛に渇く貧しい人たちのために生涯を捧げる決心をしました。主イエスはわたしたちの苦しみ、痛みを御自身のものとされ、わたしたちを救われました。
 人は自分で自分を救うことは出来ませんし、他人を救うことも出来ません。「わたしの民」を救われるのは神御自身なのです。神はモーセにしたように、わたしたちにも日常の「道をそれて」神の備えたもう「道」に入って行くように求められます。神に「声をかけられ」、聖なる「場所」に導かれ、「履物を脱ぎ」、自分を神に差し出すのです。そのようにしてわたしたちは救われるのです。わたしたちの痛みを御存じの神はわたしたちを捨てられることはありません。

 モーセは「わが民」のために苦しみ、心を痛める神を知りました。そしてその神から「今、行きなさい」と命じられました。四〇年前、ファラオの宮廷を出てイスラエルの民のために立ち上がろうとした時、彼は若く力と自信に満ちていました。今は八〇歳、かつての面影はありません。しかし、人は弱くされて初めて神の器になるのです。
 神の人モーセは人の子イエスに重なります。主イエスも天の父のもとで豊かであったにもかかわらず、貧しくなられたからです。そして十字架の死に至るまで従順でした。それゆえ天の父から与えられた偉大な使命を果たすことが出来たのです。
 モーセは妻子をろばに乗せ、エジプトに降って行きました。わたしたちも「今、行きなさい」という使命を主イエスから与えられているのではないでしょうか。