2013年1月20日日曜日

マタイ21章1-11節「主イエス、エルサレムに迎えられる」

第153号

 主イエスはエルサレムに向かって歩み始めました。オリーブ山の東側から山の南側の山麓に沿って進みケドロン川を越えてエルサレムに上るのです。イスラエルは民がバビロンから帰還後も五百年に亘って異民族に支配されました。その当時はローマ帝国によって虐げられていました。弟子たちは主イエスがエルサレムに入られることにより、民が重い頸木から解放され自由にされると信じていました。主イエスが支配する神の国の出現を思い、いよいよその日が来たと心がときめいたことでしょう。
 主イエスはベトファゲに着くと二人の弟子を使いに出し、「主がお入り用なのです」と言って、ロバとロバの子を引いて来るよう命じました。
 主イエスがロバに乗ると彼らは服や木の枝を切って道に敷き、「ダビデの子にホサナ」と叫びました。《ホサナ》とは「今、救ってください」の意で、「ダビデの子、万歳」、「ダビデの子に『祝福あれ』」の意です。主イエスは人々の歓呼の声に包まれてエルサレムに入城しました。王がロバに乗ってエルサレムに入城することは五百年前にゼカリアが預言していたことでした(ゼカリア書九章九節)。
 しかし、王が凱旋するのであれば軍馬に乗り、威風堂々と入城するはずでした。しかしこの王は「柔和な方」で、「荷を負うロバ」に乗っていました。ロバは平和の象徴でもあります。エルサレムの住民は混乱し「いったい、これはどういう人だ」と言って騒ぎました。それに対し主イエスと一緒にいた人たちは「この方は、ガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と答えました。彼らは主イエスが病人を癒し、自然を支配し、死人さえ甦らされたことを知っていたからです。そしてこのお方は天からの火で敵を滅ぼすことも出来ると信じていたのです。

  弟子たちは神の国の実現のため主イエスと共に戦って死ぬ覚悟でした。そのためには自分の命も惜しくはありませんでした。しかし、勝利を得た暁には主イエスと共にその国を支配することを夢見ていました。

その中にあって主イエスだけがエルサレム入城の本当の意味をご存知でした。それは、エルサレムで苦難を受け、十字架に付けられるということでした。神であり人である主イエスが人々の罪の身代わりとなって死ぬことがこの世に神の国をきたらせる唯一の道でした。
 エルサレムに入った弟子たちは、主イエスがいつ決起するかと心待ちにしていました。しかし、一向にその気配はありません。それどころか、敵がやって来た時、剣を抜いて戦おうとしたペトロを止め、天からの火で焼きつくすように求めた弟子を叱責されました。弟子たちは逃げるより他ありませんでした。どれ程後から悔やんでも、それは主イエスを見捨てたということでした。民衆もローマからイスラエルを解放しようとしないイエスを嘲り「十字架に付けよ」と叫びました。

 多くの人が自分は神を信じていると思っています。祭司長、律法学者、ファリサイ派の人たち、そして主イエスに従った弟子たちも皆、聖書を読み、神を信じていました。しかし、誰一人、主イエス御自身が神だと認識していませんでした。そのことから彼らは自分の頭で思い描いた神を神と信じていたにすぎないことを知らされます。同じことはわたしたちにも言えます。主イエスが神であることは、生まれつきのわたしたちには隠されていることなのです。
 主イエスは十字架に付けられましたが、三日目に甦られました。そして御自身を四十日に亘って弟子たちに示し、天に昇り神の右に坐られました。そして約束の聖霊を受け、弟子たちに注がれました。それがペンテコステの日に起こったことで、聖霊を受けた弟子たちは初めて主イエスが神であることを知りました。そのことは神の側からの働きかけによるもので、人間の力によるものではありません。わたしたち人間は自分の力で神を知ることは出来ないのです。
 主イエスはわたしたちの罪を全て負い十字架に付けられ、その罪を贖われました。わたしたち自身が自分の救いのために何かしなければならないということではなく、この主イエスのなされたことがわたしたちの救いとなったのです。それは主イエスを通してわたしたちに示された神からの一方的な恵みなのです。
 主イエスは神の子であるにも拘らず荷を負うロバの背に乗られました。低くされ、無価値な者、貧しい者とされました。そして、苦難と十字架の死を受け入れられました。それによってこの世ばかりでなく、永遠の都エルサレムの王となられたのです。軍馬に乗り、威風堂々と入城する王であれば弟子たち、また民からも歓迎されたでしょう。しかし、それではこの世の王にすぎなくなってしまいます。神の国は霊によって主イエスを王として礼拝する民によって生まれ、永遠の都エルサレムとなるのです。