2013年3月17日日曜日

マタイ17章1-13節「これはわたしの愛する子」

第155号

 東日本大震災から二年が経ちました。当日、東京神学大学の卒業式に出席していましたが、礼拝堂の天井が大きく揺れ、梁が落ちて来るのではないかと思いました。十日後、パートナーズ・インターナショナル米国(NGO)のスタッフ、ボブ・サーベッジ氏と仙台、石巻を訪れました。そこにはニュース等で見た光景が広がっていました。住民は復旧のために立ち上がろうとし、自衛隊や海外からのボランティアなども多くいました。教会もまた地域の人たちに食糧や寝場所を提供する等して貢献していました。人々は長い列を作って順番を待ち、何事にも自分より弱い人たちを優先させ、助け合っていました。このような被災者の様子にサーベッジ氏は心を動かされたようでした。
 日本には海外からの留学生や英語教師がいますが、彼らの多くはユーチューブの動画やフェイス・ブック、スカイプ等のネットで自分の安全を家族や知人に知らせると共に、被災地への募金を呼びかけていました。同様に海外からも多くの人が義援金を呼びかけていました。個人や教会から多額の援助金が送られて来たことにパートナーズ・インターナショナル米国は驚いていました。災害援助専門家サーベッジ氏が急遽来日したのはそのためでした。
 不思議な事に世界には日本に特別な関心を寄せ、このような災害が起こると涙する多くの人がいます。それは以前から日本の自然や歴史に関心を持っていたり、日本に滞在したことがある人々以外にも見られます。彼らの日本人への愛はどこから来ているのでしょうか。

 主イエスと三人の弟子ペトロ、ヤコブ、ヨハネは高い山に登られました。そこで主イエスは太陽のように光り輝きました。そして弟子たちを雲が覆うと「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声がありました。この光景は預言者モーセのシナイ山での出来事に重なります。モーセが持って来た石の板に神は御自身の指で十戒を刻まれ、イスラエルの民に与えられました。民がこの戒めを守って生きるなら神に祝福され、守らないなら裁かれるのです。
 民は残念ながら律法を守って正しく生きることは出来ませんでした。聖と義なる神は天におられる裁判官であって、民は一人として裁きに耐えられませんでした。時が満ちて、神はイスラエルの民だけでなく全世界の民を救うため、御自身の独り子をこの世に与えられました。
 人々は主イエスを十字架に付けましたが、主イエスはその十字架の上で天の父に「父よ、彼らをお赦し下さい。自分が何をしているのか知らないのです」と言われました(ルカ二三章三四節)。主イエスは全ての人の罪を御自身で負われたのです。そして、神の呪いとなって十字架上で亡くなりました。その独り子を天の父は三日目に復活させられたのです。主イエスの贖いの故に、人は律法に従って義しく生きる必要はなくなりました。主イエスを信じるだけで救われるからです。
 弟子たちが主イエスのもたらした福音を心から信じることが出来るようになったのはペンテコステ(聖霊降臨日)で聖霊を受けてからでした(使徒二章参照)。わたしたちの心に聖霊が宿ることによって初めて神の言葉が石の板に代わって心に刻まれるのです。そうして、わたしたちは神を愛し、人を愛するように変えられて行きます。

 東日本大震災の津波の大きさは千年に一度と言われています。東日本の海岸に沿って建物や施設が流され、二万人近い人の生命が失われました。そして津波によって起こった福島第一原子力発電所事故の放射能漏れのため、多くの人々が住みなれた土地を離れなければなりませんでした。しかしそのような中で示された人々の規律と忍耐、自己犠牲はわたしたちに痛みと悲しみだけでなく、生きる力と将来への希望を抱かせるものでした。また世界中からの激励は彼らもまたわたしたちと同じ気持ちでいることを教えてくれました。これらの災害は決して偶然や摂理ではないと思うのです。日本がこのような苦難を受けることにより、精神的により強くされるためではないでしょうか。それは世界に果たすべき使命を持った国であるからだと思います。そしてその事を世界の人たちも無意識にでも知っているが故に、これ程までの愛を日本に注いでくれたのではないでしょうか。多くの国の人にとって日本はその意味で特別な国であることを忘れてはならないと思います。そしてそれ故に神と人の前に謙遜にならなければと思うのです。