第159号
パウロはローマの信徒への手紙九章一節から一八節にかけて、わたしたちの「救い」はあくまでも神の恵みであって、自分の意志や行いによるものではないと言います。その具体例として「アブラハムの子孫だからといって、皆がその子供ということにはならない」、また神はイサクの妻リベカに双子の男の子が生まれる前に「兄は弟に仕えるであろう」と言われたことを上げます。それは「自由な選びによる神の計画が人の行いにはよらず、お召しになる方によって進められる」ためでした。神はわたしたちの心も支配しておられるのです。イスラエルの民をエジプトから出すようにと言うモーセの願いをファラオが拒絶したのは神がファラオの心を「かたくなにされ」たからでした。
パウロはこのように言うなら、あなたがたは「ではなぜ、神はなおも人を責められるのだろうか。だれが神の御心に逆らうことができようか」と問うに違いないと言います。不可知論者として知られている科学者アインシュタインもまた「もしこの存在者が全能であれば、全ての人間の行動、思想、また人間の感情と希望を含む全ての出来事がこの存在者の仕業です。そういう全能の存在者の前にそして人間の行動と思想に対して本人の責任を問うことはどうしてあり得るのでしょうか?罪と報いを与えることによって、ある意味では神がご自分を裁くことになります。神に帰すべき善と義をこれとどうして両立できるでしょうか?」と言っています。わたしたちが救われたのは神の一方的な選びによるものなのでしょうか、それとも自分の意志によるものなのでしょうか。その問いに対して聖書は繰り返し、人は自分で自分を救うことは出来ないことを教えます。ノアの時代、神が民をご覧になると全ての人が堕落していました。同じように、天の父は独り子をこの世に送られたのにも関わらず誰一人主イエスを神の子と認めませんでした。人は神が、食べたら「必ず死ぬ」と言われたにも関わらず、サタンの「絶対に死ぬことはない」との言葉に耳を貸し、その木の実を食べてしまったのです。サタンは今日に至るも、このように言ってわたしたちを欺いているのです。
神はご自身で「怒りの器」を用意され、彼らを滅ぼされると言うのではなく、「滅びの器」となってしまった民の中からご自身の民を救われたのです。ノアしか救われなかったのではなく、神はノアを救われたのです。なぜ、もっと多くの人をとか、全ての民を救われなかったのか、と言って神を裁くことは出来ません。神は主イエスを神の子と信じる者たちを、ご自身の「栄光」のために「憐れみの器」としてあらかじめ用意されたのです。
アインシュタインの問への答えは、神は自らの罪のために滅びに定められていた人たちの中から、ご自身のために救われる者を用意された、と言うことです。救われた人はそのことを感謝することは出来ても、救われなかった人がいること、そしてなぜ、全ての人を救わないのだと神に不平を言うことはできないのです。アルバート・バーンズと言う学者は彼の新約聖書注解で「全ての人が罪人であるときに、神がある人を良く扱われたとしたらそれ以上の事を要求することはできない」と言っています。
わたしたちが救われたのはわたしたち自身の為ではなく、神の栄光をたたえるためです。滅びの中から救われたわたしたちは、神の「憐れみの器」なのです。