第161号
ヤコブは「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉こそ「最も尊い律法」であって、それを実行するなら「それは結構なことです」と言います。しかし、続けて、それだけでは十分ではなく、他の律法をも守らなければ結局「罪を犯すことになり、律法の違反者と断定されます」と述べています。わたしたちから見れば、罪は罪でも「人を分け隔てしてはならない」は、「人を殺すな」に比べれば比較にならないほど軽いように思われます。それにも拘らず、ヤコブは、絶対的に「義」であり「聖」である神の前に、わたしたちが犯すたとえわずかな罪であっても、自分を義とすることは出来ず、結局は罪に定められると言うのです。
「律法」とは一体何なのでしょう。ユダヤ人は幼少から両親から旧約聖書を教えられ、「モーセの十戒」を学びます。「律法」とは神を信じるなら、してはならないこと、あるいはしなければならないことです。神はモーセを遣わしてエジプトに住むイスラエルの民をアブラハムに約束したカナンの地に導き出そうとされました。そこに「神の国」を築くためでした。その神の国の民にふさわしい倫理基準こそ十戒でした。十戒を守って歩む民を神は祝福し、平和と富と繁栄を約束されたのです。十戒は、一.神以外のものを神としてはならない、二.刻んだ像を作って神としてはならない、三.主の名をみだりに唱えてはならない、四.安息日を守りなさい、五.父母を敬いなさい、六.殺してはならない、七.姦淫してはならない、八.盗んではならない、九.嘘をついてはならない、十.むさぼってはならない、ですが最初の四つは神に関する戒め、後半の六つは人に関する戒めです。それらは神を愛しなさい、人を愛しなさいという二つの戒めにまとめられ「最も尊い律法」となります。
「律法」は神の国の民のもので宗教的なものですが、この世の国においては、それは法律となります。人を殺した場合、故意か過失か、計画的か衝動的か、攻撃的か正当防衛か等が考慮され、人によって裁かれることになります。身体への殺傷、そして財産、名誉、地位への損失は告訴によって裁判になり判決が下されます。「裁き」は「法律」が根拠となって「判決」が下されます。しかし人間の裁きには量刑に不公平が避けられません。時には殺人犯でない人に極刑を下すという冤罪まで起こります。神でなく、罪ある人が人を正しく裁くことは出来ません。また、多くの利己的な人は法律に触れなければ何をしても良いと考えます。そのため悪い人が栄え、正しい人が苦しむことはよくあることです。人が人を裁く「法律」に対し、神は「律法」によって人を裁かれます。無からこの世を創られた全知全能の神の裁きには間違いがありません。旧約聖書では神は律法を守る民を恵まれます。「世界の民はユダヤ人のようになりたがっている」とよく言われます。それは、神を信じることによって初めて人は正しく生きる根拠を持つからです。神なき世界では法律を守る根拠が希薄なため、道徳の崩壊が起こりがちです。人が正しく生きるためには神の存在が「要請」されるのです。
この信仰をわたしたちは神から「恵み」として与えられました。それ故わたしたちは、もはや人を裁くことは出来ません。自分の罪が赦されているのに、他人の罪を裁くことは出来ないからです。それは「最も尊い律法」が不要となるということです。律法に代わって、主イエスの福音が与えられているからです。