2014年12月21日日曜日

マタイ1章18〜25節「その名はインマヌエル」

 クリスマス礼拝》
 第175号
 ヨセフはガリラヤのナザレに住む大工でした。彼にはマリアという許嫁がいました。当時のユダヤでは婚約と結婚とは法的に同じでしたが、結婚することによって初めて一緒に生活することが出来たのです。従って彼らは婚約者でしたが夫ヨセフ、妻マリアと呼んでいます。妻マリアは結婚する前に身重になりました。イスラエルでは民は神から与えられた十戒に従って生きることが求められていました。神の前に正しく生きることが「義」であって、もしそう出来ない場合は「裁き」を受けたのです。姦淫は死罪でした。夫ヨセフはこのことを表ざたにすることが出来ました。しかし、「夫ヨセフは正しい人であったのでひそかに縁を切ろうと決心した」のです。ヨセフには妻に裏切られた憤りや恨み、怒りが見られません。それより愛する妻マリアにとってどのようにするのが一番良いのかを考えることが出来る人でした。彼は生まれて来る子を自分の子と認めた上で離縁状を出すことにしたのです。「このように考えて」いたヨセフに「主の天使が夢に現れ」、「恐れず妻マリアを迎え入れなさい」、「胎の子は聖霊によって宿ったので」ある。「その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」と告げました。「イエス」はギリシャ語で「救助者」、「救い」の意です。ヘブル語では「ヨシュア」で、「神は救われる」がその語源です。当時、極めて一般的な名前でした。天使はこの子の誕生は「主が預言者を通して言われていた」ことで「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」と預言者の言葉を引用し、「インマヌエル」とは「神が共におられる」という意味だと付け加えました(イザヤ七章一四節)。「ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、男の子が生まれるまでマリアと関係することは」ありませんでした。

 ヨセフは夢に現れた天使の言葉を信じました。それはマリアの身の潔白を信じることでもありました。父親ヨセフについては聖書に余り書かれていませんが、十二歳になった主イエスがエルサレムに宮詣に行った時のことが書かれています(ルカ二章四一〜五二節)。祭りの帰路、ヨセフとマリアはイエスが村人たちと一緒にいるものと思っていたのですが、息子がいないのを知るとエルサレムに戻り、捜しました。そして三日後に神殿にいるイエスを見つけたのです。マリアは「なぜこんなことをしてくれたのですか。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです」と言いました。しかし、ヨセフは何も言いません。窓のところでホッと息をし、汗を拭っていたのでしょう。母親の言葉からわたしたちは父ヨセフがどれほど息子を愛していたかが分かります。伝承は、ヨセフはイエスが父の仕事を継ぐことが出来る頃に亡くなったと伝えます。公生涯に入られた主イエスはナザレでも伝道しましたが、人々は「マリアの息子」と呼び、彼を受け入れようとはしませんでした(マルコ六章三節)。普通であれば「ヨセフの息子」と呼ぶはずでした。しかしそうでないのはマリアの不義の子と思われていたのではないかと言われます。そうであるなら誤解を解くすべを持たなかったヨセフとマリアはこのような人たちの冷たい視線を受け入れる外はなかったでしょう。
 主イエスの出生の秘密は人々の目に隠されていたことでした。同じように、主イエスが神御自身であることは人々の目に隠されていたことでした。ヨセフやマリアもそのことを知りませんでしたし、弟子たちも同じです。彼らが主イエスが神であるのを知るようになるのは主の復活とペンテコステを経験しなければなりませんでした(使徒二章参照)。わたしたちもまた、このお方が神であることを知るには聖霊を受けなければなりません。

 人間の先祖であるアダムは土の塵で作られ、神の息を吹き込まれて生きる者になりました。アダムとエバはエデンの園で神と共に生きていたのです。しかし彼らは罪を犯し、神との交わりを失い、エデンの園を追われました。それ以来アダムとエバの子孫であるわたしたち人間は神との交わりを失ったのです。人間の決定的な悲惨さは神から離れていることであって、「あなたはどこにいるのか」と神から問われている存在であるということです(創世記三章九節)。そのため神との交わりの回復こそ、聖書の主題となっているのです。
 時が満ち、神はマリアを選ばれ、神であり、人である主イエスがこの世にお生まれになりました。主イエスには少しの罪もありませんでした。そしてわたしたち人間の弱さをご存知でした。わたしたちはこのお方を十字架につけましたが、主イエスはその上から「父よ、彼らをお赦し下さい。彼らは何をしているのか知らないのです」と言いました(ルカ二三章三四節)。これはわたしたち個々の罪の抹消というより、世の罪を取り除かれたということでした。主イエスによって救われた者はその愛を知って人を赦すことが出来るように変えられます。「義」と「裁き」の世界から「愛」と「赦し」の世界に生きるようになるのです。

 主イエスはわたしたちをエデンの園に導き入れ、神との交わりを回復するのです。それ故、このお方はインマヌエルと唱えられるのです。

2014年11月16日日曜日

ヨハネ11章17〜27節「あなたの兄弟は復活する」

 永眠者記念礼拝》
 第174号
 べタニアはエルサレムから三キロ弱のところにある小さな村で、そこにマルタ、マリア、ラザロの三姉弟が住んでいました。ラザロが病気になるとマルタとマリアは主イエスのところに使いを出し「あなたの愛しておられる者が病気なのです」と伝えました。主イエスと弟子たちはヨルダン川上流の東岸で同じベタニアという名の地におられました。そこは洗礼者ヨハネが人々に洗礼を授けていたところでした。エルサレムで命を狙われたのでそこに身を引かれたのです。主イエスは「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるためである」と言われ、なお二日ほどそこにとどまられました。それから「もう一度、ユダヤに行こう」、「ラザロは死んだのだ」と言われました。
 彼らがベタニアに着かれるとラザロは墓に葬られ、既に、四日がたっていました。そこにはマルタとマリアを慰めるため大勢のユダヤ人たちが集まっていました。マルタはイエスが来たのを知ると迎えに行き、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言いそれから家に戻ると、妹のマリアに「先生がいらして、あなたをお呼びです」と告げました。マリアは主のところに来てひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と姉と同じことを言いました。
 彼らは主が来て、ラザロを助けてくださると信じていたのです。主は、水を葡萄酒に変え、王の役人の息子の病気を癒し、五千人の人をわずかのパンで養われ、生まれつき目の不自由な人を見えるようにされました。しかし、死んで二日経ち、三日経つと生き返るかもしれないとの希望はなくなりました。
 マリア、そして人々が泣いているのを見て、主イエスは「涙を流され」ました。彼らに案内されて墓に着くと、「その石を取りのけなさい」と言われました。マルタが「主よ、四日もたっていますから、もう臭います」と言うと、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われ、「ラザロよ、出て来なさい」と大声で叫ばれました。すると死んでいたラザロが墓から出て来たのです。

 マザーテレサはインドで十字架につけられた主イエスを見ました。その時、主は「わたしは渇く」と言われたのです。彼女は修道院に行き、何日も祈り、主が「わたしは愛に渇く」と言われたと悟りました。彼女はすぐにカルカッタのスラム街に行き、そこで最も貧しい女の子を見つけて抱きしめました。それは彼女と一体となることで孤独、悲しみ、痛み、弱さを共有することでした。マザー・テレサの働きはそこから始まりました。その子に字を教え、一緒に遊ぶ内にその輪は広がりました。そして一人寂しく路上で死んで行く人たちを看取る働きへと広がって行きました。
 主イエスもわたしたち一人一人をその御腕に抱かれるのです。遠く離れていても主はマルタとマリア、そしてラザロを見ておられたのです。
 問題は、主イエスを見ても誰もこのお方が神御自身であるとは信じないことでした。母マリアも、弟子たちも同じで、彼らは主イエスを神から遣わされたメシアと信じてはいましたが、人間としての限界を見ていたのです。当時、このような奇跡をなす超能力者はいたのです(出エジプト記七章一一節など)。旧約の預言者エリヤも、やもめの独り息子を生き返らせました(列王記上一七章参照)。人々は「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言い、マルタも「終わりの日の復活の時に復活することは存じています」と言いました。いかに主であっても、死はどうすることも出来ない現実で、受け入れるだけしかなかったのです。しかし、もしそれだけであるなら、魂の不滅を信じる他の宗教とどのような違いがあるのでしょうか。仏教も神道も霊魂の不滅を教えます。

 主イエスはマルタに「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われました。栄光とは神の顕現に他なりません。それは御自身が神であることを明らかにされるということでした。この世を創られ、歴史を支配しておられる神がマルタ、マリア、そして人々と共におられたのです。マルタは終わりの日の復活の時まで待つ必要はなかったのです。そして今日、このお方がわたしたちと共におられます。マザーテレサが女の子を抱いたように、生ける主がマルタを、そしてわたしたちを抱いてくださるのです。それ故、死はもはやわたしたちを支配することはありません。

 時の経過は地位、名誉、財産、人間の愛などこの世のものすべてを無に帰します。しかし、主イエスの命にあずかる者は永遠に生きるのです。時間は神が創られたものにすぎず、死は永遠と有限であるこの世との接点であって、墓はその接点の象徴です。主イエスの十字架と復活はそのことを教えます。この出来事なくして、ラザロの復活を知ることは出来ません。「あなたの兄弟は復活する」、それは今生きている神、主イエスを知ることであって、そのことを教え伝えるのがわたしたちの、そして教会の使命です。

2014年9月21日日曜日

ヨハネ12章24〜26節「一粒の麦」

 172号
 主イエスが十字架につけられたのは過越祭の前日でした。祭りの前に数人のギリシャ人が主イエスを訊ねて来たのですが、それを知った主イエスは、弟子たちに、「人の子(御自身)が栄光を受ける時が来た」と言われました。「栄光」とは神であることを現すことで、それは十字架の出来事でした。
 主イエスは神が人となってこの世に来られたお方でしたが、母マリアや弟子たちを含めて誰一人としてそのことは理解出来ませんでした。わたしたち人間は、自分の力で主イエスを神と認めることは出来ないのです。信じる為には神からの力が働かなければなりません。
 洗礼者ヨハネはわたしの後から来るお方はわたしより偉大である、「わたしは水で洗礼を授けに来た」が、そのお方は「聖霊によって洗礼を授ける」と言いました。ガリラヤのナザレから出て来た主イエスは、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けましたが、ヨハネは、主イエスの上に聖霊が降るのを見て、初めて「このお方は神の子である」と証ししたのです。

 旧約聖書では「神の義」が強調されています。「義」とは「正しい」ことです。神はイスラエルの民に十戒(律法)を与えられ、それによって神の民にふさわしく歩むように求められました、しかし、「義」は「裁き」でもあります。与えられた神の基準に沿って生きることが出来なかった民はアッシリアとバビロニアによって滅ぼされたのです。
 そのような民に神は救い主が与えられると約束されていました。そのお方こそ主イエスで、新約聖書はその約束が成就したことを教えます。主イエスは御自身の命(十字架)でわたしたちの罪の身代わりとなられました。わたしたちはその贖いを信じることによりもはや罪に定められることはないのです。そこに神の愛があります。
 主イエスは御自身の死は人々に大きな益をもたらすと言われました。その益とはわたしたちの罪の赦しだけでなく、「弁護者」を与えられることでもありました(ヨハネ一四章参照)。そこで、主イエスは「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」と言われました(一六節)。「弁護者」とはギリシャ語で「パラクレィト」、ラテン語で「アドボケイト」です。「慰め主」、「助け主」、「忠告者」、「カウンセラー」で、「この方は、真理の霊」なのです(一七節)。墓から三日目に復活された主イエスは弟子たちに四〇日間、復活の御自身を示されましたが、エルサレムを離れないで約束の聖霊が与えられるのを待ちなさいと言われました。その約束は主イエスが天に上げられた一〇日後のペンテコステで成就したのです。聖霊が与えられるということはわたしたちのうちに神が人格として留まることで、神と一体となることです。それによって新しい創造物とされるのです。
 八月一一日から一八日までインドネシアの西カリマンタンに行って来ました。一七日の日曜礼拝はプニティ・アタナシウス教会で守りましたが、この教会は一人の日本人宣教師の死によって生まれたのです。その方は、安東栄子師で、彼女は長い祈りと準備の末、この地に遣わされました。しかし、二年後、教えていた神学校の卒業式の翌日、自動車事故で亡くなりました。その彼女の意志をついだ神学校の卒業生たちの働きによって教会が生まれました。しかし、その教会は地元の人たちの焼き討ちに遭いました。イスラムの人たちが多く住む極めて伝道の困難な地域で、その人たちにとって教会は自分たちの信仰に敵対するものでしかなかったのです。その反省に立って新しい教会が建てられました。主イエスは「神の言」であって、神御自身であることは強調しません。イサクに信仰が継承されたことを強調するのではなく、兄であるイシマエルと同じアブラハムの子であることを強調するのです。一緒に生活し、彼らと労苦を分かち合い信頼関係を築くのです。そうすることによって初めて彼らは福音に耳を傾け、教会を受け入れることが出来るようになるのです。

 旧約の神は「敵に報復し、仇に向って怒りを抱かれる」お方でした(ナホム書一章二節)。しかし、神はその怒りをわたしたちにではなく、その罪の全てを御子である主イエスに負わせたのです。主イエスは十字架の上で、父よ、彼らは間違っています、彼らを裁いて下さい、とは言われませんでした。自分を十字架につけた人たちに向って「父よ、彼らをお赦し下さい」と言われたのです。御自身の死で彼らの身代わりとなられたのです。
 ギリシャ人が主イエスのところに来たのは、異邦人の救いの時が来たことを教える為でした。ユダヤ人たちは彼ら異邦人が救われるまで、尚しばらく律法の世界に留まらなければなりません。しかし、異邦人たちはもはや正しい行いではなく主イエスの救いを信じ信仰によって救われるのです。

 罪とは正しい行いで神の前に自分を義としようとすることです。わたしたちは聖霊を受けて初めてそのような罪を悔い改め、救われるのです。わたしの為に死んで下さったお方が一緒におられるのを知るようになるからです。誰も自分と神の二人の主人に兼ね仕えることは出来ません。自分に死に、神の為に生きようとすることは「一粒の麦」となることです。

2014年7月20日日曜日

使徒13章1〜12節「二人の上に手を置いて」

 第171号

 パウロの第一次伝道旅行の始まりです。パウロはその後、続いて第二次、第三次伝道旅行を行いましたが、その時はこの地域からアジア、ギリシャ(マケドニアとアカイア)に足を延ばしました。わたしたちが不思議に思うのは、このような大きな働きをしたのが十二使徒の一人ではなく、月足らずで生まれた使徒パウロだったということです。
 アンティオキア教会にはパウロと共に、バルナバ、ニゲルと呼ばれるシメオン等が色々な国から集まって来ていました。彼らが礼拝していると聖霊が、バルナバとサウロをわたしの決めていた仕事に当たらせなさい、と命じました。「そこで彼らは断食して祈り、二人の上に手を置いて出発させた」のです。
 彼らと助手として同行させたヨハネ(マルコ)の一行が最初に向かったのはキプロス島で、バルナバとマルコの故郷でした。そこで彼らは地方総督セルギウス・パウルスに会いました。しかし、彼に仕えていたバルイエスという魔術師が二人の邪魔をしました。パウロが叱責すると彼の目は見えなくなりました。それを見たパウルスは驚き、主の教えを信じました。

 教会はペンテコステの日に聖霊が使徒たちに降ることによって始まりました。その時から彼らは大胆に宣教を開始したのです。ペトロの説教で信じた人たちは三千人を数えたと言います。彼らは皆、信心深いユダヤ人でパルティア、メディア、エラムなどアッシリアの各地からエルサレムに帰って来ていた人たちでした。その日以降、使徒たちの働きで信じる者の数は増えていきました。それに伴いエルサレムの教会ではギリシャ語を話すユダヤ人とヘブライ語を話すユダヤ人の間で日々の分配のことで問題が起こるようになりました。それはやもめたちへの食事の量の不公平だけではなく、信仰の違いがあったからでした。ユダヤ教を信じ、その律法と神殿生活を厳格に守って主イエスを信じる人たちと、キリストを信じる信仰だけで救われると信じる人たちとの争いであり、割礼の有無が救いに必要かどうかということでもありました。
 そのような時に極めて大きな出来事が起こりました。ステファノの殉教でした。石で打たれる直前の彼の説教には、律法でなく主イエスによる救いが述べられています。ステファノの死を契機に教会への大規模な迫害が始まりました。使徒を除く信者たちはユダヤとサマリア地方に散っていったのです。使徒たちが教会に留まることが出来たのは神殿を中心とした生活をしていたからです。しかし教会から散っていった人たちはもはやユダヤ人のように律法に従う生活をしていませんでした。
 パウロはステファノの殺害に賛成し、石を投げる人たちの上着の番をしていました。パリサイ派の熱心な一員であった彼はなおもクリスチャンへの弾圧を続けていました。そしてクリスチャンを捕縛しエルサレムに連れて来る権限を祭司長からもらい、ダマスコに行く途上、「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」という主イエスの声を聞いたのです。パウロの母国語はギリシャ語で、生まれはキリキアのタルソでした。彼の説教はステファノと同じで、異邦人はユダヤ教によるのではなく、ただ主イエスを信じる信仰によって救われるというものでした。
 エルサレム教会は次第に衰退に向かい、特にその傾向は西暦七〇年のローマ・ユダヤ戦争以降に強まり、代わってアンティオキヤ教会と言った異邦の地にある教会の力が強くなっていきました。使徒たちもエルサレムから散っていきました。パウロはローマ、そしてトマスはインド、マルコはエジプトに行ったと言われます。ヘブル語を話す多くの使徒や信者たちはアッシリアを中心とする東方に向かいました。そこにはアッシリアとバビロン捕囚の時、連れて行かれた多くのユダヤ人がいたからです。彼らはユダヤ教を否定しなかったため、多くのユダヤ人がキリストを信じました。ギリシャ語を話すユダヤ人たちはギリシャ、ローマへと散っていきました。伝道は彼らから異邦人改宗者に引き継がれ、次第にユダヤ教と分かれたのです。
 わたしたちはパウロの書簡等から西方教会にのみ目を向けがちですが、同時にアッシリアの東方教会の働きにも目を向ける必要があるのではないでしょうか。その影響は西欧諸国と同じ時期に中国や日本にも及んでいました。アッシリア東方教会とネストリウス派(景教)の人たちの多くはユダヤ人改宗者だと言われています。
 

 パウロの第一次伝道旅行の訪問地キプロスでの最初の実はローマの地方総督セルギウス・パウルスでした。このような地位にある人物が信徒となることは、大きな意味のあることでした。彼はもはやローマ皇帝の僕ではなく、主イエスの僕となったのです。神の国の一員にされた地方総督セルギウス・パウロスは、もはや二人の主人に兼ね仕えることは出来ないのです。それはローマ帝国に対する神の国の勝利であって、紀元三一三年にローマ帝国がキリスト教を国教とするまでの長い道のりの始めの一歩となったのです。それだけでなくキリスト教はローマ帝国が崩壊した後も広がり続け、今日に至るのです。バルナバとパウロの「二人の上に手を置いて」伝道に送り出したアンティオキア教会の祈りは世界宣教を夢見る今日のわたしたちの教会の祈りでもあります。

2014年6月15日日曜日

使徒2章1〜11節「大勢の人が集まって来た」

第170号

ペンテコステ礼拝〉

 五旬祭の日に約束の聖霊は弟子たちに下り、主イエスを頭とする新しい共同体が誕生しました。弟子たちは御言葉を宣べ伝え始めたのです。
 五旬祭は過越祭から数えて五〇日目に当たります。過越祭は昔、イスラエルの民がモーセに率いられてエジプトを出た日を記念するものです。民は一ヶ月後にシナイ山に到着し、そこで神から十戒を授けられましたが、その日を記念するのが五旬祭です。そして荒れ野の四〇年の生活を記念するのが仮庵祭です。この祭りの間、人々は庭に簡単な小屋を作りそこで生活するのです。これらはイスラエルの三大祭りで、いずれも歴史と聖書に基づいた宗教的な祭りですが、約束の地カナンに入ったイスラエルの民は土着の豊穣の祭りと結びついて、過越祭は大麦の収穫を祝い、五旬祭は小麦の収穫を祝い、仮庵祭では秋の収穫を祝うようになりました。これらの祭りはキリスト教では復活祭(イースター)、聖霊降臨日(ペンテコステ)、降誕日(クリスマス)となっています。
 イエスは過越祭に十字架に付けられましたが、それは御自身が祭りで用いられる贖いの小羊となられたということです。しかし、主イエスは三日目に墓より甦られ、「御自身が生きていることを、数多くの証拠を持って使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ」たのです。弟子たちに御自身の手足、脇腹の傷跡を示され、また一緒に食事をされました。「モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明され」、「神の国について話され」たのです(使徒一章三節、ルカ二四章二七節)。その後、弟子たちが見ているうちに天に上げられました。主イエスは弟子たちに「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである」と命じました(使徒一章四、五節)。弟子たちが聖霊を受けたのは主イエスの昇天から一〇日後のことでした。

 過越祭に弟子たちが一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまりました。すると、一同は聖霊に満たされ、ほかの国々の言葉で「主の偉大な業」を話し始めました。この物音に大勢の人が集まって来ました。彼らは「天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人」たちで、エルサレムに帰って自分たちに約束された救い主を待ち望んでいたのでしょう。彼らは自分が生まれた国の言葉で主イエスの誕生から、伝道、十字架、復活の出来事を聞いて驚いたのです。弟子たちの宣教は神の力によるものでした。また、弟子たちが人々のところに出かけていったのではなく、彼らの方から弟子たちのところにやって来たのです。
 聖霊はわたしたちを生かす命です。神はわたしたちの先祖アダムとエバを土の塵で造られましたが、命の息を鼻に吹き入れられることにより生きるものとされたのです。アダムとエバは神の戒めを破り、食べてはいけないと言われていた善悪を知る木の実を食べてしまいました。それによって神の霊は彼らを離れ、死ぬものとなりました。主イエスが来られたのはそのような人を生かすためでした。弟子たちに聖霊が降ることよって人は再び生きるものとなったのです。それが新しい共同体であって、教会の誕生でした。聖霊によって彼らは新しい創造物となりました(二コリント五章一七節)。もはやユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由人もないのです。神に国に入るには聖霊を受け、新しく生まれる以外にはありません。(ヨハネ三章一節〜一五節三章)。


 弟子たちは、主イエスはこの世に神の国を建てられると信じて従いました。その国はエルサレムから始まり、世界に広がり、自分たちもまた主イエスを助けてその国を支配しようと思っていたのです。それは主イエスをメシアと信じながら、自分の夢の実現にかけていたことに他なりません。そのため、主イエスが捕らえられ、裁きの座に立たされるとペトロは「この人を知らない」と三度も否認したのです。そして主イエスが十字架に付けられるとユダヤ人たちを恐れて部屋に閉じこもりました。このような弟子たちと同じように、聖霊を受けるためにはわたしたちは自我を砕かれなければならないのです。古い自分に代わって主イエスが生きるようになるためです。もちろん、自分の自我が完全になくなることことはなく、与えられた聖霊との間に戦いが起こります(ロマ書七章二四節)。しかし、御霊は弱いわたしたちを助けて下さるのです(ロマ書八章二六、二七節)。それがわたしたちの信仰の道です。高齢を全うした自然な死であろうとなかろうとそれは自分に死ぬという意味において殉教の道となります。それは神がなされることであり、不思議なことに喜びと平安の道でもあります。そして、たとえ生きている時に実現しなくてもこのような人のところに「大勢の人が集まって」来るのです。