2014年5月18日日曜日

ヨハネ13章31〜35節「新しい戒め」

第169号

 主イエスは十字架に付けられる前夜、過越祭を弟子たちと祝いました。主は「この世から父のもとに移る御自身の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」のです。弟子たちの足を洗い、ご自分を裏切ろうとしている弟子に「しようとしていることを、今すぐしなさい」と言われました。「ユダが出て行くと」、十字架によって神と御自身が「栄光」を受けると言われ、わたしたちに「新しい掟」を与えました。「栄光」とは神の「啓示」であり、わたしたちに神を顕現されることです。そして、「新しい掟」とは「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と言うものでした。この「掟」は旧約聖書の十戒に対応しているので、「掟」と言うより「戒め」です。十戒の最初の四つの戒めは、神以外のものを神としてはならない、神の像を造ってはならない、神の名をみだりに唱えてはならない、といった神に関するものです。後の六つは、父と母を敬え、殺してはならない、といった人に関するものです。神と人との関係が正されて初めて人と人との関係も本来の姿になります。同じことは「新しい戒め」についても言えます。まず、神がわたしたちを愛して下さったのです。それ故、わたしたちも人を愛すのです。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネ一五章一三節)。主イエスがわたしたちのために命を捨ててくださったことによって、わたしたちは愛を知ったのです(第一ヨハネ三章一六節)。

 新渡戸稲造の「武士道」(”BUSHIDO The Soul od Japan1899)は欧米人のために書かれた書物ですが、今日、多くの日本人に評価され、その訳が読まれています。新渡戸はその中で、「私は、封建制と武士道がわからなくては、現代日本の道徳思想は封印された書物と同じだと気づいた」とあります。そして「神道の自然崇拝は、国土を私たちにとって心の奥底からいとおしく思える存在にした。また神道の祖先崇拝は、次々と系譜をたどっていくことで、ついに天皇家を民族全体の起源とした。わたしたちにとって国とは…耕地以上のもの…(であって)…神々、すなわち私たちの祖先の霊がすむ新鮮な場所である。」と書いています。
 欧米と日本に見られる共通の歴史的経緯はユダヤ教、キリスト教、神道の宗教を基盤とし封建時代と騎士道、武士道の道徳、倫理観を生んだことがあげられています。また、車輪を運搬手段とし二階建て以上の建物が近代化以前にあったこと等もあげられます。
 それと同時にこれらの国では殉教の歴史がありました。昨年九月、東京神学大学で上智大学文学部・史学科の川村信三教授を招いて「ヨーロッパにおける日本再宣教の熱意」副題「人々は信仰の国日本を忘れなかった」の講演会があり、出席しました。川村教授はローマ、アメリカで神学と歴史を学ばれ、ジョージタウン大学で博士号(PhD)を取得された方です。一六世紀の日本であった二十六人の殉教を取り上げて語られましたが、殉教はイエズス会、フランシスコ会の宣教地であるアジア、アフリカ、南米の国等では考えられないことだったと言うのです。そして、その衝撃がどれほど大きなものであったかは、彼らが「日本二十六聖人」とされヨーロッパの教会で今日に至るまで日本と教会のために熱い祈りが捧げられて来たということに表れている、と言われました。
 日本ではその後の二百五十年の間に二〇万人とも三〇万人とも言われる殉教があったと言われています。ローマのカタコルムには多くの殉教者が埋葬されていますが、その数は決して日本を越えるものではありません。その意味において日本とそこにある教会には主イエスによって特別な役割が委ねられているのは間違いないでしょう。

 ある牧師が、広島原爆資料館を訪れた時のことを本に書いていました。そこでマザーテレサが書いた色紙を見つけたと言うのです。そこには、わたしたちの祈りは神がわたしたちを愛したようにわたしたちもまた愛し合うことが出来ますように、と書かれていたものが、隣の和訳には、互いに愛し合いなさい、そうすればこのような悲惨なことは二度と起こりません、といった内容に変えられていたと言うことでした。その牧師は宗教を排除する戦後教育の問題がここにあると批判していました。このことは教会にもあるのではないでしょうか。新渡戸は「私があまり共感を覚えないのは、キリストの教えをあいまいにする教会のやり方」であると前述の書に書いています。

 互いに愛し合うことを求めても、自分の命をかける根拠を持たない博愛や人道主義の愛には人を救う力も国を救う力もないのではないでしょうか。人間中心主義から神中心主義に変わることがわたしたちに求められているのであって、大切なことは、主イエスは十字架による死を前に「わたしがあなた方を愛したように」と言われたことです。わたしたちが持っている日本人としての長く養われて来た民族としての特性、すなわち、わたしたちが本来持っていた精神的な強さを否定してキリスト教を信じるのではなく、旧約聖書に大和魂と呼ばれる武士道的精神を重ねたその「古い戒め」の上に主イエスを神と信じる「新しい戒め」がわたしたちに与えられているのではないでしょうか。