2014年11月16日日曜日

ヨハネ11章17〜27節「あなたの兄弟は復活する」

 永眠者記念礼拝》
 第174号
 べタニアはエルサレムから三キロ弱のところにある小さな村で、そこにマルタ、マリア、ラザロの三姉弟が住んでいました。ラザロが病気になるとマルタとマリアは主イエスのところに使いを出し「あなたの愛しておられる者が病気なのです」と伝えました。主イエスと弟子たちはヨルダン川上流の東岸で同じベタニアという名の地におられました。そこは洗礼者ヨハネが人々に洗礼を授けていたところでした。エルサレムで命を狙われたのでそこに身を引かれたのです。主イエスは「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるためである」と言われ、なお二日ほどそこにとどまられました。それから「もう一度、ユダヤに行こう」、「ラザロは死んだのだ」と言われました。
 彼らがベタニアに着かれるとラザロは墓に葬られ、既に、四日がたっていました。そこにはマルタとマリアを慰めるため大勢のユダヤ人たちが集まっていました。マルタはイエスが来たのを知ると迎えに行き、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言いそれから家に戻ると、妹のマリアに「先生がいらして、あなたをお呼びです」と告げました。マリアは主のところに来てひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と姉と同じことを言いました。
 彼らは主が来て、ラザロを助けてくださると信じていたのです。主は、水を葡萄酒に変え、王の役人の息子の病気を癒し、五千人の人をわずかのパンで養われ、生まれつき目の不自由な人を見えるようにされました。しかし、死んで二日経ち、三日経つと生き返るかもしれないとの希望はなくなりました。
 マリア、そして人々が泣いているのを見て、主イエスは「涙を流され」ました。彼らに案内されて墓に着くと、「その石を取りのけなさい」と言われました。マルタが「主よ、四日もたっていますから、もう臭います」と言うと、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われ、「ラザロよ、出て来なさい」と大声で叫ばれました。すると死んでいたラザロが墓から出て来たのです。

 マザーテレサはインドで十字架につけられた主イエスを見ました。その時、主は「わたしは渇く」と言われたのです。彼女は修道院に行き、何日も祈り、主が「わたしは愛に渇く」と言われたと悟りました。彼女はすぐにカルカッタのスラム街に行き、そこで最も貧しい女の子を見つけて抱きしめました。それは彼女と一体となることで孤独、悲しみ、痛み、弱さを共有することでした。マザー・テレサの働きはそこから始まりました。その子に字を教え、一緒に遊ぶ内にその輪は広がりました。そして一人寂しく路上で死んで行く人たちを看取る働きへと広がって行きました。
 主イエスもわたしたち一人一人をその御腕に抱かれるのです。遠く離れていても主はマルタとマリア、そしてラザロを見ておられたのです。
 問題は、主イエスを見ても誰もこのお方が神御自身であるとは信じないことでした。母マリアも、弟子たちも同じで、彼らは主イエスを神から遣わされたメシアと信じてはいましたが、人間としての限界を見ていたのです。当時、このような奇跡をなす超能力者はいたのです(出エジプト記七章一一節など)。旧約の預言者エリヤも、やもめの独り息子を生き返らせました(列王記上一七章参照)。人々は「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言い、マルタも「終わりの日の復活の時に復活することは存じています」と言いました。いかに主であっても、死はどうすることも出来ない現実で、受け入れるだけしかなかったのです。しかし、もしそれだけであるなら、魂の不滅を信じる他の宗教とどのような違いがあるのでしょうか。仏教も神道も霊魂の不滅を教えます。

 主イエスはマルタに「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われました。栄光とは神の顕現に他なりません。それは御自身が神であることを明らかにされるということでした。この世を創られ、歴史を支配しておられる神がマルタ、マリア、そして人々と共におられたのです。マルタは終わりの日の復活の時まで待つ必要はなかったのです。そして今日、このお方がわたしたちと共におられます。マザーテレサが女の子を抱いたように、生ける主がマルタを、そしてわたしたちを抱いてくださるのです。それ故、死はもはやわたしたちを支配することはありません。

 時の経過は地位、名誉、財産、人間の愛などこの世のものすべてを無に帰します。しかし、主イエスの命にあずかる者は永遠に生きるのです。時間は神が創られたものにすぎず、死は永遠と有限であるこの世との接点であって、墓はその接点の象徴です。主イエスの十字架と復活はそのことを教えます。この出来事なくして、ラザロの復活を知ることは出来ません。「あなたの兄弟は復活する」、それは今生きている神、主イエスを知ることであって、そのことを教え伝えるのがわたしたちの、そして教会の使命です。