2014年12月21日日曜日

マタイ1章18〜25節「その名はインマヌエル」

 クリスマス礼拝》
 第175号
 ヨセフはガリラヤのナザレに住む大工でした。彼にはマリアという許嫁がいました。当時のユダヤでは婚約と結婚とは法的に同じでしたが、結婚することによって初めて一緒に生活することが出来たのです。従って彼らは婚約者でしたが夫ヨセフ、妻マリアと呼んでいます。妻マリアは結婚する前に身重になりました。イスラエルでは民は神から与えられた十戒に従って生きることが求められていました。神の前に正しく生きることが「義」であって、もしそう出来ない場合は「裁き」を受けたのです。姦淫は死罪でした。夫ヨセフはこのことを表ざたにすることが出来ました。しかし、「夫ヨセフは正しい人であったのでひそかに縁を切ろうと決心した」のです。ヨセフには妻に裏切られた憤りや恨み、怒りが見られません。それより愛する妻マリアにとってどのようにするのが一番良いのかを考えることが出来る人でした。彼は生まれて来る子を自分の子と認めた上で離縁状を出すことにしたのです。「このように考えて」いたヨセフに「主の天使が夢に現れ」、「恐れず妻マリアを迎え入れなさい」、「胎の子は聖霊によって宿ったので」ある。「その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」と告げました。「イエス」はギリシャ語で「救助者」、「救い」の意です。ヘブル語では「ヨシュア」で、「神は救われる」がその語源です。当時、極めて一般的な名前でした。天使はこの子の誕生は「主が預言者を通して言われていた」ことで「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」と預言者の言葉を引用し、「インマヌエル」とは「神が共におられる」という意味だと付け加えました(イザヤ七章一四節)。「ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、男の子が生まれるまでマリアと関係することは」ありませんでした。

 ヨセフは夢に現れた天使の言葉を信じました。それはマリアの身の潔白を信じることでもありました。父親ヨセフについては聖書に余り書かれていませんが、十二歳になった主イエスがエルサレムに宮詣に行った時のことが書かれています(ルカ二章四一〜五二節)。祭りの帰路、ヨセフとマリアはイエスが村人たちと一緒にいるものと思っていたのですが、息子がいないのを知るとエルサレムに戻り、捜しました。そして三日後に神殿にいるイエスを見つけたのです。マリアは「なぜこんなことをしてくれたのですか。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです」と言いました。しかし、ヨセフは何も言いません。窓のところでホッと息をし、汗を拭っていたのでしょう。母親の言葉からわたしたちは父ヨセフがどれほど息子を愛していたかが分かります。伝承は、ヨセフはイエスが父の仕事を継ぐことが出来る頃に亡くなったと伝えます。公生涯に入られた主イエスはナザレでも伝道しましたが、人々は「マリアの息子」と呼び、彼を受け入れようとはしませんでした(マルコ六章三節)。普通であれば「ヨセフの息子」と呼ぶはずでした。しかしそうでないのはマリアの不義の子と思われていたのではないかと言われます。そうであるなら誤解を解くすべを持たなかったヨセフとマリアはこのような人たちの冷たい視線を受け入れる外はなかったでしょう。
 主イエスの出生の秘密は人々の目に隠されていたことでした。同じように、主イエスが神御自身であることは人々の目に隠されていたことでした。ヨセフやマリアもそのことを知りませんでしたし、弟子たちも同じです。彼らが主イエスが神であるのを知るようになるのは主の復活とペンテコステを経験しなければなりませんでした(使徒二章参照)。わたしたちもまた、このお方が神であることを知るには聖霊を受けなければなりません。

 人間の先祖であるアダムは土の塵で作られ、神の息を吹き込まれて生きる者になりました。アダムとエバはエデンの園で神と共に生きていたのです。しかし彼らは罪を犯し、神との交わりを失い、エデンの園を追われました。それ以来アダムとエバの子孫であるわたしたち人間は神との交わりを失ったのです。人間の決定的な悲惨さは神から離れていることであって、「あなたはどこにいるのか」と神から問われている存在であるということです(創世記三章九節)。そのため神との交わりの回復こそ、聖書の主題となっているのです。
 時が満ち、神はマリアを選ばれ、神であり、人である主イエスがこの世にお生まれになりました。主イエスには少しの罪もありませんでした。そしてわたしたち人間の弱さをご存知でした。わたしたちはこのお方を十字架につけましたが、主イエスはその上から「父よ、彼らをお赦し下さい。彼らは何をしているのか知らないのです」と言いました(ルカ二三章三四節)。これはわたしたち個々の罪の抹消というより、世の罪を取り除かれたということでした。主イエスによって救われた者はその愛を知って人を赦すことが出来るように変えられます。「義」と「裁き」の世界から「愛」と「赦し」の世界に生きるようになるのです。

 主イエスはわたしたちをエデンの園に導き入れ、神との交わりを回復するのです。それ故、このお方はインマヌエルと唱えられるのです。