2015年1月18日日曜日

ルカ3章15〜22節「あなたはわたしの愛する子」

第176号
 イスラエルの人々はメシアの到来を待ち望んでいました。主イエスの時代、その地はローマ帝国の支配下にあり、民が働いて収める税金もローマのものとなりました。また、ローマの平和は軍事力によるものでした。異民族で異教徒が治めるその状況は、かつてエジプトで奴隷であった時代を思い起こさせるもので、モーセのような預言者が与えられ、ローマの頸から解放されることが人々の願いでした(申命記一八章一五節以下参照)。彼らの期待するメシアは極めて政治的なものだったのです。

 民は洗礼者ヨハネがメシアではないかと考えるようになりました。ヨハネはヨルダン川に現れ、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物とし、「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝」えていました。しかし、ヨハネは民に対し自分はメシアではないと明確に否定しました。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。…その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」と言ったのです。
 ヨハネは民に日常的に犯す罪を具体的に示し、罪から離れて正しい生活をするように求めました。そうしなければ神の裁きに遭うと言ったのです。ヨハネの言葉には力があったので、多くの人たちが彼のところにやって来ました。ヨハネはその人々に「蝮の子らよ」、自分たちはアブラハムの子孫で、神の選民だなどと思っても見るな、神は石ころからでもアブラハムの子を造り出すことがお出来になると言い、彼らを神の怒りの前に立たせました。そして、罪を離れて生きる決心をした人たちにヨルダン川で洗礼を授けたのです。

 ヨハネは民の罪を暴き、罪を悔い改めさせることはしましたが、彼らを赦し、救うことは出来ませんでした。それは神だけが出来ることでした。それ故、ヨハネは自分の後からやって来る方を「わたしより優れた方」と言い、「わたしには、その方の履物のひもを解く値打ちもない」と言ったのです。
 ヨハネはその方がどのようであるかを「麦と殻のたとえ」を用いて教えました。その方は、箕を手に持って麦と殻を高く投げ上げるのです。殻は風で飛ばされ、麦は箕に落ちます。麦は倉に入れられ、殻は集められ火で焼かれます。そのようにしてその方は人を救われる者と、裁かれる者を分けると言うのです。
 神は自分の罪を認め、悔い改めるならその人に聖霊を与えられます。聖霊がその人に宿るのが赦しであり、罪からの救いです。人は自分の力ではなく、聖霊の力によって罪を犯さなくなるように変えられて行くのです。しかし、悔い改めて主イエスのところに来ようとしない人に対しては火の洗礼となって焼き滅ぼすのです。それが裁きです。それは人が主イエスを受け入れなかった結果でもあります。
 義とは聖霊によって神と結びついて生きることで、裁きとは聖霊なしに生きることです。わたしたちの内に聖霊のあるなしが生となり、死となるのです。聖霊はわたしたちに主イエスがどのような方であるかを教えます。
 主イエスは洗礼者ヨハネから洗礼を受けました。わたしたちは、神である主イエスがなぜヨハネのところに来て、洗礼を受けたのかを不思議に思います。ヨハネも「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたがわたしのところに来られるのですか」と主イエスに問い、思いとどまらせようとしました(マタイ三章一四節)。聖霊を受けた後、主イエスが祈っていると天が開き、聖霊が降って来て「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と、天からの声がありました。

 神である主イエスはご自身には少しの罪もなく、その必要がなかったにも関わらずヨハネから「罪の赦しを得させる悔い改めの洗礼」を受けられました。このようにして主イエスは人であるわたしたちの側に立たれたのです。主イエスを信じる共同体、すなわち教会の頭となるためでした。この主イエスの後ろにわたしたちもいるのです。父と子の関係が、主イエスを通して天の父とわたしたちの関係になるのです。弟子たち、そしてわたしたちも聖霊を与えられるのです。それによってわたしたちもまた天の父から「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言われるのです。それがペンテコステの時に起こったことでした(使徒言行録二章参照)。
 主イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受け、天の父から聖霊を受けたその出来事は、詩編二編に書かれていることに重なります。かつて、王、祭司、預言者は油を注がれることによって任職しました。そこには王の任職式のことがこのように書かれています。「主の定められたところに従ってわたしは述べよう。主はわたしに告げられた。『お前はわたしの子、今日、わたしはお前を生んだ。求めよ。わたしは国々をお前の嗣業とし、地の果てまで、お前の領土とする。お前は鉄の杖で彼らを打ち、陶工が器を砕くように砕く』」(七〜九節)。主イエスはこの任職式を洗礼者であり預言者であるヨハネから受けられました。そしてそれを父はご自分の声で承認されたのです。主イエスはこの後、荒野でサタンの誘惑を受けられ、十字架に至る宣教の生涯に入られました。