2015年2月15日日曜日

ルカ5章12〜26節「罪を赦す権威」

   第177号
 イスラエルでは罪の赦しは神殿と祭司制に結びついていました。毎年、一回、「贖いの日」に大祭司は小羊の血を携えて聖所から至聖所に入り、自分自身の罪と民の罪が赦されるように祈りました。そして、神から罪の赦しの確信が与えられると、そこから出て来て外にいる民の前に立ち、自分たちの罪は赦されたと宣言したのです。「罪を赦す権威」は神だけのものでした。大祭司の権威は神の言葉を宣言することでした。
 罪と病は結びつけて考えられていました。病気はその人の犯した罪の結果と考えられたのです。宗教的に忌むべき病気にかかっていた人は、病気が癒されると神殿に行き、祭司に見てもらいました。祭司の権威の一つは、その人の病気を調べ、確かに治っていると公に宣言することでした。その宣言によって初めて社会復帰が出来たのです。
 
 全身重い皮膚病にかかっている人が主イエスの所に来ました。当時この病気は伝染し、不治の病とされていたため人々から恐れられ、城壁のある町に入ることは許されませんでした。救いを与えるはずの宗教も、苦しみを与えている側に立っていたのです。宗教的指導者たちは自分の身が汚れるのを恐れて触れようとはしませんでしたが、主イエスは、その人に「手を差し伸べて」触れると「よろしい、清くなれ」と言われました。「触れる」ことはその病と罪を共に負うことの意思表示でもありました。
 男たちが中風にかかった人を床に乗せ主イエスの所に連れて来ました。この時、主イエスはガリラヤにあるペトロの家にいたと言われています。男たちは大勢の群衆に阻まれると、屋根に上って瓦をはがし、主イエスの前に病人を床ごとつり降ろしました。主イエスは「その人たちの信仰を見て、『人よ、あなたの罪は赦された』と言われ」ました。
 ユダヤの宗教指導者であった、ファリサイ派の人々と律法の教師たちにとって、神殿以外で神が罪を赦すことなど考えられませんでした。そして祭司でない者が罪の赦しを宣言することは、許されないことでした。神殿を中心とした宗教組織が崩壊するなら、自分たちの社会的基盤も危うくなってしまうのです。彼らは「神を冒涜するこの男は何ものだ。ただ神のほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか」とつぶやきました。
 主イエスはそのようなファリサイ派の人たちと律法の教師たちに、「『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか」と問われました。どちらも人間には出来ないことです。しかし、片方はわたしたちの眼で見ることが出来、もう一方は眼で見ることが出来ません。そのため、どちらかと言うと中風の人に起きて歩けと言う方が難しいように思えます。しかし、病気が罪の結果であるなら当然、難しいのは罪を赦す方です。主イエスは人々の目の前で奇跡を行うことによって、「罪を赦す権威」を持っていることを教えようとされたのです。
 中風の人を連れて来た男たちは、主イエスが癒して下さることを信じていました。しかし、中風の人自身はそれを信じることが出来ませんでした。誰が自分の病を癒せるのか、神にだって出来はしない、と思って諦めていたのです。「神にはできないことは何一つない」のです(ルカ一章三七節、及び創世記一八章一四節参照)。罪とは主イエスを神と信じないことに他なりません。
 主イエスの病の癒しの特徴は、数分後、数時間後、数日後に治ったと言うのではありません。重い皮膚病の人に「よろしい、清くなれ」と言われると「たちまち」病は消え去ったのです。中風の男もまた「すぐさま皆の前で立ち上がり…家に帰って行った」のです。「人々は皆大変驚き、神を讃美し始めた。そして、恐れに打たれて、『今日、驚くべきことを見た』と言った」のです。

 中風のため絶望し床についていた罪人を立ち上がらせたのは、周りの人たちの信仰でした。この出来事は伝統的に教会を意味していると考えられて来ました。教会は罪人を囲む共同体だからです。わたしたちは信仰を神と自分の個人的な関係として捉え、自分の罪を認め、悔い改めなければ救われないと考えがちです。特に敬虔主義的な立場を取る信仰者にその傾向が強いようです。しかし、主イエスは中風の人に罪を認め、悔い改めることを求めませんでした。連れて来た人たちの信仰だけを見ていたのです。

 神は自分の所に来た人を全て赦されます。御自身の力だけで救われるのです。もし救いにわたしたちの側の条件を付けるなら、律法主義的信仰となってしまいます。全ては主イエスがなさることで、それ故、中風の人を連れて来た人たちは、その人が癒された時、一緒に喜ぶことが出来たのです。苦しみも悲しみも喜びも共に生きる事が大切です。人々は神にだけ期待できることをしたのであって、ただ神に従うことだけが神に対する信頼です。その信頼は神の所に来ることから始まります。「罪を赦す権威」は神である主イエスだけにあるからです。

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