2015年4月19日日曜日

ルカ24章13〜35節「イエスは生きておられる」

  第179号
 イエスは「『わたしはある』と言うことを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる」と言われました。(ヨハネ八章二四節)。「わたしはある」は旧約聖書の「ヤハウェ」、神を意味します(出エジプト記三章一四節参照)。神は独り子である主イエスによって御自身がどのようなお方であるかを示されました(ヨハネ一章一八節)。わたしたちは主イエスが人であり、神であると信じています。主はこの世にいる間、わたしたちのために様々な「しるし」を行いましたが、その中で最も大切な出来事は復活です。それは霊の不滅ではなく、霊と肉体の死からの復活を教えるものです。そのため多くの人にとって受け入れるのが難しくなっています。しかし、主イエスが復活されないのであれば、わたしたちの復活もありません。わたしたちが復活しないのであれば、主イエスの復活もないのです。死者の復活がないのであればわたしたちの宣教自体が無意味となります(第一コリント一五章、参照)。主イエスの復活を信じることは、神がこの世界を創られたこと、わたしたちの罪を解決する唯一の道であること、永遠の命の確かなことを知ることになります。

 二人の弟子たちがエマオに向かって歩いていました。エマオはエルサレムから西に十一キロぐらいのところにある小さな村でした。二人は他の弟子たちと同じように、主イエスに望みをかけていました。望みとはエルサレムをローマの頚から解放し神の国にすることでした。主イエスを王とし、自分たちも王を助けてこの国を支配するのです。その国はサマリア、ガリラヤと広がり世界の果てにまで及ぶのでした。しかし、その夢は主イエスの十字架と共に消えたのです。
 二人がエマオに旅立つその日の朝早く墓に行った婦人たちが、墓が空になっていると告げました。弟子たちが駆けつけると確かに墓は空でした。主イエスは三日前、十字架に付けられて墓に入れられたのです。弟子たちが不思議に思いながら帰った後、そこに留まっていたマグダラのマリアに主は御自身を現されました。しかし、弟子たちは彼女の言うことを信じることは出来ませんでした。一度、十字架で死んだ者が生き返ることはあり得ないと思っていたからです。望みを失った多くの弟子たちがエルサレムを離れ自分たちの出て来たところに帰って行きました。二人の弟子たちもそのような仲間と同じでした。エマオにきっと自分たちの家があったのでしょう。
 道々、彼らは主イエスに起こったことを話していました。すると後から来た人が並んで歩き始め、話し掛けて来ました。二人はエルサレムにいたなら誰でも知っているはずなのにといぶかりながらも話して聞かせました。するとその人は彼らを物わかりが悪く、心の鈍い者たちと言い、聖書を通してメシアの苦難と栄光について解き明かしました。
 エマオに着くと弟子たちはその人を泊まるようにと強いて勧め、食事を共にしました。客であったその人が祈り、パンを裂くと、二人の目が開け、主イエスだと分かったのです。それと同時に、主の姿は消えました。
 二人の弟子たちはもはやエマオに留まることは出来ませんでした。主イエスが生きておられたからです。彼らの夢もまた復活したのです。彼らは直ちにエルサレムに取って返し、他の弟子たちに一刻も早くこのことを伝えようとしました。エマオに来る時、彼らは重い足を引きずり、暗い顔をしていました。しかし今や彼らの足は軽く、その顔は喜びに輝いていたのです。エルサレムに着くと弟子たちが集まっていて、復活の主がシモンにも現れたことを話していました。二人の弟子たちもまた主イエスに出会ったことを彼らに告げたのです。

 十二弟子の一人、イスカリオテのユダにサタンが入り主イエスを裏切りました。ユダヤ人指導者と民が主を十字架につけましたが、それもまたサタンの唆しによるものでした。このことはエデンの園でサタンであるヘビが人間の先祖であるアダムとエバを唆かし、神から取って食べてはならないと言われた善悪を知る木の実を食べたのと重なります。善悪を知る木の実を食べることは自分が神となって生きると言うことに他なりません。わたしたち人間には神なしに自分中心に生きたいという強い思いがあります。地位、名誉、財産、家族や仕事もすべて自分のものとして生きたいのです。ユダヤ人指導者たちは主イエスを十字架につけることによって神に勝利し、神から自由になり、全てを自分のものとすることが出来ると思ったのです。しかし、そうではありませんでした。主イエスは墓から甦られたからです。
 エデンの園の中央には命の木と善悪の知識の木が植えられていました。主イエスこそ命の木に他なりません。罪とは神から離れ、自分中心に生きることであって、その結果が死です。しかし主イエスを信じて生きる時に命が与えられます。この木から実を取って食べることによって再び生きることが出来るのです。そのことによってすべては神からこの世にいる間だけ貸し与えられているに過ぎないのを知るようになるのです。

 主イエスはご自身の復活により永遠の命の確かなことを教えられました。この世のことはすべて過ぎ去ります。わたしたちの国籍は天にあるのです。