2015年5月17日日曜日

ルカ7章1〜10節「これほどの信仰」

   第180号
 イエスは弟子たちの中から十二人を選ばれ使徒とされました(六章一二節)。それ以降、民衆に教えられる時でも、使徒たちにご自身がどのようなものであるかを示されてきたのです。しかし、使徒たちはすぐには理解できませんでした。少しずつでも分かるようになったのはペンテコステの出来事を経てからでした(使徒二章参照)。使徒たちですらそうでした。それ以外の弟子や民衆にとって主イエスがどのようなお方であるかは多くの場合、隠されたままでした。
 主イエス一行がカファルナウムに戻られると、ユダヤ人の長老たちがやって来ました。彼らはイエスに百人隊長の家に一緒に来てくれるようにと熱心に頼みました。隊長の部下が病気で死にそうだったのです。「部下」とは「僕」で、ギリシャ語ではドウロス(奴隷)です。彼らは、百人隊長は「そうしていただくのにふさわしい人」で、「わたしたちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれた」と言うのです。イエスは彼らと出かけました。ところが、途中、百人隊長の友人がやって来て、「主よ、御足労には及びません。…ひと言おっしゃって下さい」そうすれば僕の病は癒されます、自分も権威の下におり部下に「来い」と言えば来るし、「行け」と言えば行く、「これをしろ」と言えばしてくれるのです、と言いました。主イエスはそれを聞き、「イスラエルの中でもこれほどの信仰を見たことはない」と驚かれました。僕の病はその時、癒されたのです。

 百人隊長は文字通り百人の兵の隊長です。彼はユダヤ人でもローマ人でもなく、一介の外国人傭兵にすぎませんでした。傭兵とはお金で雇われ、直接利害関係の無い戦争に参加する者です。カファルナウムにはヘロデ・アンティパスの守備隊があったので、その駐屯地にいたのかも知れません。普通、傭兵は自分の利害だけで働いていると思われていました。それがユダヤ人への愛に生き、奴隷である僕の病気をこれほどまでに気遣っているのは不思議と言えます。しかし、そのような組織に生きていたからこそ、ユダヤ人を知り、また様々な困難を経験して神との個人的な出会いもあったと思われます。彼は洗礼と割礼を受け、ユダヤ人会堂で礼拝を守る「神を畏れる人」、すなわちユダヤ教への改宗者と思われます。主イエスを知っていて、僕の病気を癒して下さると信じていたのです。彼はイエスの前に自分の無力さと神としてのイエスの権威を知っていました。異邦人である自分の家にラビである主イエスを呼ぶ資格がないことも分かっていて、最初にユダヤ人長老、それから友人を遣わし、僕を癒してくれるようお願いしたのでしょう。
 わたしたちはこのような百人隊長を見る時、自分と比較して考えざるを得ません。主イエスを感嘆させたその信仰にあやからねばならないと思うのです。彼の自分を低くする謙遜さと、イエスの権威を知ることが救いに欠かせないと思うからです。しかし、社会を知って、会社で百人の部下を与えられ、彼らを自由に使って仕事をする時、誰がこの百人隊長のように謙遜になり、部下を愛することが出来るか疑問を禁じ得ません。神が無力なわたしをこのような地位に就かせてくれたことを頭で理解しても、それに感謝し、腰を低くして部下に仕えることが出来るとは思えないからです。

 わたしたちは人間の行いに目が向きます。何か良い働きをしなければ主イエスは喜ばれないと思うのです。しかし、わたしたちの良い行いは救いの条件になりません。ルターの宗教改革以降、このような良い行いによって救われると言う「行為義認」は否定され、イエスがわたしたちに代わってすべての良い行いをして下さったと信じる、「信仰義認」が救いだと信じるからです。従って、イエスが百人隊長の良い行いを見て、それをよしとされるならそれは行為義認となります。それは「神の恵み」が先行し、わたしたちの良い働きを神が助けられることによって救われるというのでもありません。そこにもなお、わたしたちのした良い行いという功績主義が入り込んでしまうからです。そうではなく、神がわたしたちの内にあって良い働きをされるのです。わたしの内に神が働かれるのを知って、それを神に感謝するのです。「あなたがたのうちに働きかけ、その願いを起こさせ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである」、とある通りです(ピリピ書二章一三節、口語訳聖書)。主イエスは百人隊長のうちに働かれる天の父を認められ、「これほどの信仰」と驚かれたのです。「善い方はおひとり」だけなのです(マタイ一九章一七節)。わたしたちの内には善をなそうとする意志はあっても、それを実行する力はありません(ロマ書七章一八節)。しかし、もし、主イエスの霊が宿っているのであれば、わたしたちを生かして下さるのです(同八章一一節)。
 信仰とは、わたしの内に働かれる神を信じ、そのお方に信頼することに他なりません。わたしの内における神の働きがわたしを救うのです。救いにおける主権者はわたしたち人間ではなくあくまで神なのです。主イエスは、百人隊長の中に神の働きを見ました。それは主イエスによって救われたわたしたちにも奇跡として起こったことでした。